瀬戸内坂越の北前船活動第18号(野辺地)

瀬戸内坂越の北前船活動第18号(野辺地)

                               2017年2月14日(2018年4月再構正)


 青森駅から、青い森鉄道で野辺地民俗資料館に行ったのは、2016年9月でした。

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 ここでは、野辺地歴史探る会の鈴木幹人会長から多くの事が聞けました。


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 六ケ所村と隣接している事、日本最古の鉄道防雪林、そして北前船の話では、野辺地は帆船時代北方交易の重要な拠点の1つとして、有力な豪商たちが競って入港していたと。

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 最も知りたかった坂越の奥藤家の足跡はありませんでした。

 これは、ネット上の「文化分解」のサイトに、奥藤家が年2回、瀬戸内海で塩を積み日本海を北上し、帰りは野辺地や田名部で材木!酒田で米を積み、大阪へ運んでいたと記述があったからでした。野辺地の廻船問屋五十嵐家の、野辺地久星客船帳にも入港記録さえありませんでした。瀬戸内では竹原の塩の取引の古文書が沢山ありました。

   本州最北端の下北半島には、北前船とともに上方から入ってきた食文化や祭りがあると言われ、その代表のねぶた祭についても聞きました。

 田名辺祭りは、京都八坂神社の祇園祭りの流れをくむとされる説は、山車の形態、囃子にその痕跡があるといわれています。

北前船の時代の前からこの祭りがあり、近江商人下北半島で活躍していた時代からあり。近江商人の発祥の地の滋賀県高島市には、田名部祭りに類似した山車祭が存在がある事から、これが田名部に伝えられた説がもあります。
 

 また下北半島ねぶた祭りが、日本海側に伝えられた例に、能登半島珠洲市飯田町の「飯田燈籠山祭り」があります。この祭りで使われる山車は16メートルの高さがあり「燈籠山(とろやま)」と呼ばれています。この山車は、五所川原市の19メートルの山車によく似ています。
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このようにねぶた祭りの起源には、諸説あるようで、どれが正しいかというより、どれも正しいと考えるのがよさそうです。
 いずれも経済力がなければ、祭りが続けられなかったのは明らかで、廻船問屋の存在があったのがわかります

  珠洲市の塩田村の横道社長の話で、瀬戸内の塩を流入を抑える為に加賀藩は厳しく、北前船の入港を監視していたと氏の投稿にありました。この話から、青森から入る北前船には規制はなかったのだと思いました。

 鈴木氏が責任者になっている、「野辺地歴史を探る会」のFBには、銭屋五兵衛等、加賀藩の話が多くあり野辺地の深い関係から、陸奥地方にあるねぶた祭りと関係していたかもしれません。
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また野村屋治三郎が、北前船で運んで店前に敷いていた敷石が、大坂城改築の際に切り出され残された土庄町小海の「残念石」の一部とわかり、野辺地町の町立愛宕公園の石段などに使われていたことが判明しています。土庄町の残石公園の石と、兄弟石であるとの縁で友好記念公園協定を結ばれています。
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 この調印式に野辺地まで行ったのが南堀さんでした。
 5月初めて南堀さんにあった時、淡路に野辺地の中谷市長も来られる話をすると、北前船寄港地フォーラムに行かれ中谷市長に挨拶をしていました。以来、坂越での北前船の歴史講演、そして、今年2月の兵庫県県政150周年記念行事にもゲストとして、コメントを頂きました。
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 この時、誰も語れなかった「北前船」を明楽みゆきさんが熱く語り、これまで地元で知られていなかった北前船の話に感激した人は多かったようです。      矢竹考司