坂越の北前船の調査報告  

 

f:id:sakoshi-kitamaebune:20170312080018j:plain

 坂越の北前船の調査報告                        

                  平成29年3月兵庫県清提出                                                   

                         報告者 矢竹考司  

これまで1年半近くに及んだ、坂越の北前船の足跡について調べた結果を報告します。

 

 坂越の北前船の足跡は、酒田に坂越の先人が残した二つの石造物、そして『酒田市史』や野辺地久星客船帳(青森県)の記録からわかってきています。  酒田の日和山公園に残る常夜燈は、文政期の1813年のもので、寄進者に「播州坂越 田淵正三良」の名が,「播州兵庫 高田屋手船中」の横に刻まれていました。文化文政期、日本一の塩田の持ち主だった田淵家と同じ苗字が常夜燈に刻まれていたのは、文献にも載っていないことだったので、酒田に行って初めて知った衝撃の発見であり、坂越の先人の活躍に感動しました。

f:id:sakoshi-kitamaebune:20170312080140j:plain

 また、高田屋嘉兵衛が良質な赤穂塩で莫大な利益を上げた話が、司馬遼太郎の『菜の花の沖』の中で描かれていたことがよぎり、赤穂塩で莫大な利益を得るには、田淵家のような大きな塩田の持ち主とつながりがあったのではないかという想像ができたのは、僅かな期間でした。それは、刻まれていた2名の田淵の名が、田淵家の家系図にはなく、田淵家の関係も今もまだわかっていないからです。  二つ目の石造物は、大信寺に残る、元禄12年(1699)建立の立派なお墓です。これは、酒田沖の海難事故で客死した大西家の墓で、数名の名が刻まれていました。

 元禄12年の酒田沖での海難事故は、よほど悲惨な事故だったようで、110年後、遠祖の先祖供養にと大西吉郎右衛門吉綏が、坂越から大信寺に墓印を石仏にして送っています。このとき、大西家は浄土真宗から宗派を変えていたため安置ができず、やむなく酒田からその石仏を取り寄せ、坂越の黒崎墓所に安置し、盛大な法要を営んでいます。

f:id:sakoshi-kitamaebune:20170312080252j:plain

 吉綏は、友の奥藤利毅に協力を求め、地蔵尊をつくり入江或撰が碑文まで書き残しています。その碑文は現代の我々にも語りかけているような言葉で、地蔵尊とともに、今も黒崎墓所に残され、兵庫県文化財の指定を受けています。酒田に残る坂越の人のお墓と、110年後につくられた坂越の黒崎墓所に残る地蔵尊のつながり、毎月供養する意味が理解できました

f:id:sakoshi-kitamaebune:20170301220718j:plain

 また、江戸期の坂越の北前船に関して、酒田の中学生向の、「酒田の歴史」の副読本に掲載されていたことにも驚きました。この中で、北前船で客死した坂越浦の船員が、一番古く(1665年)最も多い(23名)と書かれていました。この記述から、河村瑞賢が北前船航路を確立する1672年よりかなり前から、坂越の廻船は、酒田にまで行ってのもわかりました。これは1646年頃に、赤穂で入り浜式塩田の完成し、塩が大量に生産できるようになっていたことに、関係しているかも知れません。  また酒田では、歴史の副読本で中学生に地元の歴史を教え、酒田に誇りを持たせている事実を知りました。坂越の子どもたちは、北前船の存在さえ知らない現実があり、坂越の先人が小さな帆船で酒田まで行き、それで坂越が繁栄し、神社仏閣の再建、そして坂越の船祭りを今日まで守り継いだ歴史を知れば、坂越に誇りや自信が持てるのではないかと考えています。  

 この地元の歴史について、尾道の西井学芸員が、言っておられたことを思い出します。

 それは尾道には北前船の足跡がほとんど残っておらず、現在広島市に住んでおられる樫本慶彦氏の『北前船尾道湊との絆』の本を参考にして、これから全国に残されている尾道の石を、調査するといわれていました。「貴方も北前船の寄港地を訪問して、坂越の北前船の足跡を調べ、本にして地元の方々に見せてあげれば、地元の意識が高まるかもしれない。」と言っておられました。しかし、文章など書いたこともないので、私には到底不可能なことだと思っていました。思い返せば、尾道の西井学芸員の話が後押しとなって、多くに事に繋がっていきました。

 坂越の北前船の調査で、最初に訪ねたのが下津井、尾道でした。それから半年後、訪ねた鳥取の賀露神社に残る、尾道の石工が残した寛政期(1800年)の常夜燈や、酒田の、坂越の人が寄進した常夜燈(1813年)で、石造物に秘めらた歴史を調べる面白さがわかりました。

f:id:sakoshi-kitamaebune:20170312080733j:plain

 西井氏の出会いから半年、坂越まち並を創る会の国交省の「まちづくりゆめづくり賞」の表彰式が坂越浦会所であり、明石赤穂市長も来られていました。受付で、「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの」をお渡ししました。

 しばらくしてから、これを第1号として赤穂市教育委員会に提出し、以後発行の度に教育委員会に見ていただきました。文を書くのが苦手でしたが、北前船の寄港地の学芸員、ガイド方々、そして北前船ファンの方々の協力があって、発行を続けることができました。 10号を発行したころ、門田会長から、兵庫県に監修していただき出版する計画を聞き、弾みがついて、1年で27回のシリーズになりました。  北前船で赤穂塩を運ぶ詳細を調査では、日本海の各地域の市史、県史には、赤穂塩ではなく、播磨塩として記述されていたので、赤穂塩の比率は、別の文献から探すしかありませんでした。  赤穂塩の記述は、『竹原市史第1巻』と「秋田海岸における製塩の推移」の中にありました。このうち『竹原市史』には、新潟県十島村渡辺家文書の中で、竹原塩と赤穂塩の1両当たりの値段が比較されていました。竹原塩は1両で12俵から12半俵に対して、赤穂塩は15俵と載せられていました。また、1768年の越後地方での塩の年間取引量が年間17万から18万俵と記載もありました。

 『新潟県史通史』には播磨塩が80%の記載がありました。赤穂塩の比率は、北前船の中継地の佐渡浦川港に残る「佐渡浦川港客船覚留帳に、播磨に船籍を持つ船105隻のうち坂越浦廻船が51隻を占めていたことから、この時代、越後地方の赤穂塩は、おおよそ7万俵だったと推定できます。越後地方だけで、一年で7万俵の赤穂塩が入っていたことになります。しかしながら、坂越の廻船業者が運んだ詳細は資料が見つかっていません。

 赤穂塩については、酒田の日和山の常夜燈に「播州坂越 田淵」の名があることから、この謎を調べれば、具体的な取り引きがわかるかもしれないと考えています。  祭りと北前船の関係については、鳥取、松江、秋田、青森で調べました。どの地域でも、伝承の域をでないことがわかりました。  坂越の船祭りは、廻船業者がかかわり、祭りを支え、神社仏閣の再建など、坂越の発展に寄与していました。坂越の北前船は、野辺地の古文書や、酒田に残る石造物から1813年前後が最後で、その後は江戸への塩廻船に転換していました。  終わりに、これまでの、北前船の寄港地への訪問等で、寄港地のガイドの方々や北前船ファンの方々との交流ができるようになっています。一番近い、倉敷市の下津井には、たびたび訪ね、イベントにも参加させていただいています。「むかし下津井廻船問屋」の矢吹館長の紹介で、倉敷のジーンズで作った法被「北前船寄港地 坂越」は坂越に来られた方々にも好評を得ています。               発行者 門田守弘(坂越のまち並を創る会会長)