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北前船寄港地兵庫in坂越2号全国版

瀬戸内下津井から「北前船がもたらしたもの」全国版第2号

                                      平成28年4月13日
                               
 
  倉敷市の「むかし下津井回船問屋」に始めて行ったのは昨年の9月のことでした。展示されていたものには大変珍しいものがあったり、
北前船寄港地の地図には坂越の名前もありました。ここを訪れた人がもう一度行きたくなるところで、それ以来、坂越まち並みを創る会との交流は続いています。倉敷のジーンズで作られた「北前船寄港地坂越」の法被は矢吹館長の紹介でできたもので、その高級感と文字の響きから、北前船の話で盛り上がることがよくあります。(矢竹 考司)
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         むかし下津井回船問屋から 
 
                                                                      
 
            投稿者矢吹 勝利 (倉敷市むかし下津井回船問屋 館長
ある時代、殷賑を極めた港町がありました。瀬戸内海のほぼ真ん中に位置し、誠に風光明媚な土地にあります。この湊を下津井と言います。
江戸時代から明治にかけて、綿花の栽培に欠くことのできないものが、ニシン粕と言う肥料でした。ニシン粕はニシンの〆粕とも呼ばれたように、ニシンを絞って油を取った残り粕でした。
当時は、蝦夷と呼ばれた北海道の江差周辺で、無尽蔵とも言われるほど捕獲されたニシンは、身欠きニシンなどに加工されたもの以外は、ほとんど魚油の採取に使われました。絞りかすは天日干しされ、カマスや俵詰めにされ船で全国各地に運ばれました。
このニシン粕を運んだ船が、北前船と呼ばれた千石船 でした。千石船は、その当時にあっては最大級の大型帆船でした。この帆船が船団を組んで下津井沖に姿を見せる頃になると、下津井の商家や花街は一気に賑わいを増しました。
多い時には、一シーズンに八十三艘もの北前船が下津井に着岸したと言いますから、その賑わいは想像を絶するものがあったと思われます。下津井の沿岸には二十数軒もの北前船相手の問屋が軒を連ねていたと言われています。
北前船が運んでくる肥料のお陰で下津井周辺の干拓地や畑では、大々的に綿花の栽培が行われました。そして、その頃の綿作と綿の加工技術が始まりで、繊維の町児島が誕生するきっかけになります、特に帆布と呼ばれている厚手の生地は、千石船の帆に使われただけでなく、足袋に加工され、戦 時中には軍服に、戦後は学生服として爆発的に売れました。今は国産ジーンズ発祥の地として児島ブランドは、多くの方々に愛され世界各地に輸出されています。
また、北前船は商品だけでなく、情報や文化、芸能も運んできました。その一つがお座敷歌として広く親しまれてきた下津井節です。下津井節は今も岡山を代表する民謡として歌い継がれています。
 
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  発行者 門田 守弘 (坂越まち並みを創会会長)