瀬戸内坂越の北前船活動第18号(野辺地)

瀬戸内坂越の北前船活動第18号(野辺地)

                               2017年2月14日(2018年4月追記)


 青森駅から、青い森鉄道で野辺地民俗資料館に行ったのは、2016年9月でした。

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 ここでは、野辺地歴史探る会の鈴木幹人会長から多くの事が聞けました。


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 六ケ所村と隣接している事、日本最古の鉄道防雪林、そして北前船の話では、野辺地は帆船時代北方交易の重要な拠点の1つとして、有力な豪商たちが競って入港していたと。

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 最も知りたかった坂越の奥藤家の足跡はありませんでした。

 これは、ネット上の「文化分解」のサイトに、奥藤家が年2回、瀬戸内海で塩を積み日本海を北上し、帰りは野辺地や田名部で材木!酒田で米を積み、大阪へ運んでいたと記述があったからでした。野辺地の廻船問屋五十嵐家の、野辺地久星客船帳にも入港記録さえありませんでした。瀬戸内では竹原の塩の取引の古文書が沢山ありました。

   本州最北端の下北半島には、北前船とともに上方から入ってきた食文化や祭りがあると言われ、その代表のねぶた祭についても聞きました。

 田名辺祭りは、京都八坂神社の祇園祭りの流れをくむとされる説は、山車の形態、囃子にその痕跡があるといわれています。

北前船の時代の前からこの祭りがあり、近江商人下北半島で活躍していた時代からあり。近江商人の発祥の地の滋賀県高島市には、田名部祭りに類似した山車祭が存在がある事から、これが田名部に伝えられた説がもあります。
 

 また下北半島ねぶた祭りが、日本海側に伝えられた例に、能登半島珠洲市飯田町の「飯田燈籠山祭り」があります。この祭りで使われる山車は16メートルの高さがあり「燈籠山(とろやま)」と呼ばれています。この山車は、五所川原市の19メートルの山車によく似ています。
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このようにねぶた祭りの起源には、諸説あるようで、どれが正しいかというより、どれも正しいと考えるのがよさそうです。
 いずれも経済力がなければ、祭りが続けられなかったのは明らかで、廻船問屋の存在があったのがわかります

  珠洲市の塩田村の横道社長の話で、瀬戸内の塩を流入を抑える為に加賀藩は厳しく、北前船の入港を監視していたと氏の投稿にありました。この話から、青森から入る北前船には規制はなかったのだと思いました。

 鈴木氏が責任者になっている、「野辺地歴史を探る会」のFBには、銭屋五兵衛等、加賀藩の話が多くあり野辺地の深い関係から、陸奥地方にあるねぶた祭りと関係していたかもしれません。
 。

また野村屋治三郎が、北前船で運んで店前に敷いていた敷石が、大坂城改築の際に切り出され残された土庄町小海の「残念石」の一部とわかり、野辺地町の町立愛宕公園の石段などに使われていたことが判明しています。土庄町の残石公園の石と、兄弟石であるとの縁で友好記念公園協定を結ばれています。
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 この調印式に野辺地まで行ったのが南堀さんでした。
 5月初めて南堀さんにあった時、淡路に野辺地の中谷市長も来られる話をすると、北前船寄港地フォーラムに行かれ中谷市長に挨拶をしていました。以来、坂越での北前船の歴史講演、そして、今年2月の兵庫県県政150周年記念行事にもゲストとして、コメントを頂きました。
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 この時、誰も語れなかった「北前船」を明楽みゆきさんが熱く語り、これまで地元で知られていなかった北前船の話に感激した人は多かったようです。      矢竹考司
 
 
 









 坂越の北前船の調査報告  

 

坂越の北前船の調査報告                        

                 2017年3月                                         

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 坂越の北前船の足跡は、酒田に坂越の先人が残した二つの石造物、そして『酒田市史』や野辺地久星客船帳(青森県)の記録からわかってきています。  酒田の日和山公園に残る常夜燈は、文政期の1813年のもので、寄進者に「播州坂越 田淵正三良」の名が,「播州兵庫 高田屋手船中」の横に刻まれていました。文化文政期、日本一の塩田の持ち主だった田淵家と同じ苗字が常夜燈に刻まれていたのは、文献にも載っていないことだったので、酒田に行って初めて知った衝撃の発見であり、坂越の先人の活躍に感動しました。

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 また、高田屋嘉兵衛が良質な赤穂塩で莫大な利益を上げた話が、司馬遼太郎の『菜の花の沖』の中で描かれていたことがよぎり、赤穂塩で莫大な利益を得るには、田淵家のような大きな塩田の持ち主とつながりがあったのではないかという想像ができたのは、僅かな期間でした。それは、刻まれていた2名の田淵の名が、田淵家の家系図にはなく、田淵家の関係も今もまだわかっていないからです。  

 

 二つ目の石造物は、大信寺に残る、元禄12年(1699)建立の立派なお墓です。これは、酒田沖の海難事故で客死した大西家の墓で、数名の名が刻まれていました。

 元禄12年の酒田沖での海難事故は、よほど悲惨な事故だったようで、110年後、遠祖の先祖供養にと大西吉郎右衛門吉綏が、坂越から大信寺に墓印を石仏にして送っています。このとき、大西家は浄土真宗から宗派を変えていたため安置ができず、やむなく酒田からその石仏を取り寄せ、坂越の黒崎墓所に安置し、盛大な法要を営んでいます。

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 吉綏は、友の奥藤利毅に協力を求め、地蔵尊をつくり入江或撰が碑文まで書き残しています。その碑文は現代の我々にも語りかけているような言葉で、地蔵尊とともに、今も黒崎墓所に残され、兵庫県文化財の指定を受けています。酒田に残る坂越の人のお墓と、110年後につくられた坂越の黒崎墓所に残る地蔵尊のつながり、毎月供養する意味が理解できました

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 また、江戸期の坂越の北前船に関して、酒田の中学生向の、「酒田の歴史」の副読本に掲載されていたことにも驚きました。この中で、北前船で客死した坂越浦の船員が、一番古く(1665年)最も多い(23名)と書かれていました。この記述から、河村瑞賢が北前船航路を確立する1672年よりかなり前から、坂越の廻船は、酒田にまで行ってのもわかりました。これは1646年頃に、赤穂で入り浜式塩田の完成し、塩が大量に生産できるようになっていたことに、関係しているかも知れません。  

 

 また酒田では、歴史の副読本で中学生に地元の歴史を教え、酒田に誇りを持たせている事実を知りました。坂越の子どもたちは、北前船の存在さえ知らない現実があり、坂越の先人が小さな帆船で酒田まで行き、それで坂越が繁栄し、神社仏閣の再建、そして坂越の船祭りを今日まで守り継いだ歴史を知れば、坂越に誇りや自信が持てるのではないかと考えています。  

 この地元の歴史について、尾道の西井学芸員が、言っておられたことを思い出します。

 それは尾道には北前船の足跡がほとんど残っておらず、現在広島市に住んでおられる樫本慶彦氏の『北前船尾道湊との絆』の本を参考にして、これから全国に残されている尾道の石を、調査するといわれていました。「貴方も北前船の寄港地を訪問して、坂越の北前船の足跡を調べ、本にして地元の方々に見せてあげれば、地元の意識が高まるかもしれない。」と言っておられました。

 文章など書いたこともないので、私には到底不可能なことだと思っていました。思い返せば、尾道の西井学芸員の話が後押しとなって、多くに事に繋がっていきました。

 坂越の北前船の調査で、最初に訪ねたのが下津井、尾道でした。それから半年後、訪ねた鳥取の賀露神社に残る、尾道の石工が残した寛政期(1800年)の常夜燈や、酒田の、坂越の人が寄進した常夜燈(1813年)で、石造物に秘めらた歴史を調べる面白さがわかりました。

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 西井氏の出会いから半年、坂越まち並を創る会の国交省の「まちづくりゆめづくり賞」の表彰式が坂越浦会所であり、明石赤穂市長も来られていました。受付で、「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの」をお渡ししました。

 しばらくしてから、これを第1号として赤穂市教育委員会に提出し、以後発行の度に教育委員会に見ていただきました。

 北前船の寄港地の学芸員、ガイド方々、そして北前船ファンの方々の協力があって、発行を続けることができました。 

 10号を発行したころ門田会長から、兵庫県に監修していただき出版する計画を聞き、弾みがついて1年で27回のシリーズになりました。  

 北前船で赤穂塩を運ぶ詳細を調査では、日本海の各地域の市史、県史には、赤穂塩ではなく、播磨塩として記述されていたので、赤穂塩の比率は、別の文献から探すしかありませんでした。  

 赤穂塩の記述は、『竹原市史第1巻』と「秋田海岸における製塩の推移」の中にありました。このうち『竹原市史』には、新潟県十島村渡辺家文書の中で、竹原塩と赤穂塩の1両当たりの値段が比較されていました。竹原塩は1両で12俵から12半俵に対して、赤穂塩は15俵と載せられていました。また、1768年の越後地方での塩の年間取引量が年間17万から18万俵と記載もありました。

 『新潟県史通史』には播磨塩が80%の記載がありました。赤穂塩の比率は、北前船の中継地の佐渡浦川港に残る「佐渡浦川港客船覚留帳に、播磨に船籍を持つ船105隻のうち坂越浦廻船が51隻を占めていたことから、この時代、越後地方の赤穂塩は、おおよそ7万俵だったと推定できます。越後地方だけで、一年で7万俵の赤穂塩が入っていたことになります。しかしながら、坂越の廻船業者が運んだ詳細は資料が見つかっていません。

 赤穂塩については、酒田の日和山の常夜燈に「播州坂越 田淵」の名があることから、この謎を調べれば、具体的な取り引きがわかるかもしれないと考えています。  

 祭りと北前船の関係については、鳥取、松江、秋田、青森で調べました。どの地域でも、伝承の域をでないことがわかりました。  坂越の船祭りは、廻船業者がかかわり、祭りを支え、神社仏閣の再建など、坂越の発展に寄与していました。坂越の北前船は、野辺地の古文書や、酒田に残る石造物から1813年前後が最後で、その後は江戸への塩廻船に転換していました。  

 終わりに、これまでの、北前船の寄港地への訪問等で、寄港地のガイドの方々や北前船ファンの方々との交流ができるようになっています。一番近い、倉敷市の下津井には、たびたび訪ね、イベントにも参加させていただいています。「むかし下津井廻船問屋」の矢吹館長の紹介で、倉敷のジーンズで作った法被「北前船寄港地 坂越」は坂越に来られた方々にも好評を得ています。矢竹考司             

 

 

瀬戸内坂越の北前船活動第19号

東京から北前船がもたらしたもの全国版第19号

平成29年3月8日
  
今回は、3月末に兵庫県に提出する最後になるので、これまでに投稿して頂いた方との東京でのエピソードと都内であったイベントから坂越のまち並を創る会の活動を紹介します。

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3号に投稿していただいた梶川氏は、神戸市在住で、北前船の寄港地を訪ね歩いている方で、和算北前船の論文を残されています。氏とは神田神保町の古本屋で再会した時「忠臣蔵の恋」に登場した村松三太夫の祖父の茂清の著書『算俎(1663年刊)』を紹介され、現代訳版を買う事が出来ました。茂清は世界で一番早く円周率を下7桁まで発見し『算俎』で残しています。義士祭では、12代目として梶川殿役をつとめ、坂越の北前船への取り組みを宣伝して頂きました。

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4号は、東洋大学での、地方創生フォーラムは日本版DMOの研修の話でした。これは、去年2月東京で、国交省の手づくり故郷賞で「坂越の嫁入り」を発表の時の審査委員の関幸子氏からの、案内で研修を受けたものです。日本版DMOの第1号は、「せとうちDMO」で瀬戸内7つの県が連携しています。DMOを実現させる例は、行政中心で運営している観光協会をJR等の民の資金を入れ、会社組織で運営するのが多いようで、今多くの地域から申請が出ています。これに対して、北前船寄港地フォーラムは、住民も参加できる余地があり現実的な内容です。それは、寄港地同士との連携や発展出来る可能性があります。秋田土崎の世界文化遺産になった祭りを、酒田市日和山公園で開催したり、秋田から酒田までの鉄道のイベ ントで連携が実現した例があり広がって行く可能性を秘めています。

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5号は、道場六三郎氏の佐々木マネージャーに投稿していただけました。4号で書いた国交省のイベントの前日、門田会長ら3人で「北前船寄港地-坂越」の法被を着て道場氏の「懐食みちば」に行きました。銀座では、珍しい北前船の法被に女将の道場氏が、挨拶にこられ北前船の話になりました。六三郎氏は、石川県の観光大使で、前年加賀での北前船のフォーラムで、作家の石川氏と北前船と食で対談の後のレセプションで名刺交換をしていました。

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11号に投稿して頂いた、横道氏は珠洲市の塩田村で揚げ浜式塩田経営をされ、NHKの朝ドラのロケ地で、現場を提供されたとの事でした。氏とは、東京の帝国ホテルの三国清三氏がフランス政府から、レジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を授与された、御披露目パーティーでお会いしました。横道氏からは、塩にまつわる話を沢山教えていただき、ご自身で出版された「能登の揚浜塩田」まで頂きました。このイベントに、安倍首相の昭恵夫人が主賓として、素晴らしい挨拶をされました。

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14号は、北前船と無縁の、愛知県西尾市郷土史家の、加古さんの話をヒントにできました。加古さんとは、浅草で去年の12月に再会しましたが、吉良町の塩や塩田を中心に、車でガイドをして頂いたのは27年7月でした。この時の、加古さんのガイドの中で北前船が話があり、無縁の太平洋側から見た北前船の話で盛り上がりました。この話から、帆船時代の北前船の話題は、関係のない地域にも広がっているのを感じました。

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  18号は、青森の野辺地からでした。1月26日東京椿山荘での、北前船寄港地フォーラムの新年の会で、野辺地の中谷町長と初めてお会いする事ができました。古文書使って研究されている、野辺地歴史を探る会の鈴木会長の話になりました。中谷町長とのお話で、9月に北前船のフォーラムがある野辺地に、再び行って応援したい気持ちになりました。また、江差町の照井町長と宮津商工会議所で企画担当の平木志乃さんとの再会は、学ぶ事が多く、色々と教えていだけました。この椿山荘での新年の会では、坂越企画の、播磨屋の塩味饅頭が参加者に配られ、我々の活動が紹介され、あらたな展開への予感を感じました。

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「坂越の嫁入り」に続く、「坂越の北前船寄港地プロジェクト」で、北前船の発祥地の酒田に、坂越が残した1699年と1812年の石像物、酒田市史には、大信寺の過去帳に1668年の坂越浦の人の記述がありました。坂越の廻船は、144年にわたり北前船で活躍していた史実は、「ジュニア版酒田の歴史副読本」に掲載され、海難事故で犠牲になつた北前船の船員は、坂越浦の人が一番古く、最も多いとかかれていました。坂越の廻船は、河村瑞賢が北前船航路を確立する以前から、酒田で活躍していたようです。しかし、赤穂塩の取り引きの内容などの、具体的な事まで調べられませんでした。その一方で、1年で25回になったこのシリーズの発行で、沢山の地域の学芸員、ガイド、北前船ファンの方々との交流は今も続いていています。これは北前船寄港地フォーラムの本来の目的である寄港地間の交流から観光まで見据える構想に繋がる可能性が出てきています。

終わりに、これ迄のシリーズは、監修していただいて、冊子にして吉良町珠洲市、秋田土崎の図書館に置いて頂く事になっています。またネットで北前船で簡易検索が出来る国会図書館にも置いて頂く事も検討しています。今後も、ブログ「北前船寄港地兵庫in坂越」HP「北前船と坂越」で引き続き発信していきます。これまで、地元の教育委員会や寄港地の学芸員やガイドの方々の、ご支援ありがとうございました。    矢竹考司(東京都在住)               

































 

 

 

瀬戸内坂越の北前船活動17号(小樽)

瀬戸内坂越の北前船活動17号(小樽)

 
             
          平成29年1月20日
                    
今回は北前船寄港地フォーラムの開催の計画がある小樽からのご当地自慢です。
 投稿して頂いた伊東直人氏は、小樽観光大学校の「おたる案内人マイスター」としてボランテイアとして活躍中で、氏は国交省北海道運輸局から北海道旅客船協会専務理事を平成26年に退任された方です。伊東氏には赤穂版6号の嶋谷海運史の発行にあたり、小樽に残る、旧社長宅の写真の提供をして頂いています。また前回の16号の中で書いた尾道の石工の事が書かれていたので問い合わせした処、以下の返事が頂けました。石段は遠藤又兵衛が寄進したもので、氏は山形出身の海産物商で明治後期に活躍した商人で現在もその邸宅の一部が保存されています。尾道市石工、寄井彌七と取次、小林利兵衛の石碑は、遠藤の寄進した石段の最上段にあります。この事は尾道の西井学芸員に報告し、合わせて「北前船プロジエクト兵庫IN坂越」のブログを紹介する予定です(矢竹考司)
  
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江戸幕府の下、領地で全く米が獲れない松前藩の財政を支えたのは、主に蝦夷地でアイヌが収獲した海産物などとの交易による収益でした。
 江戸中期になると鰊による〆粕は、西日本方面の棉や藍、菜種などの肥料として需要が高まり、近江商人に雇われた北陸地方などの船乗りにより西廻り航路で日本海、瀬戸内海沿岸の諸港に寄港し、大阪まで運ばれました。
一方、松前藩蝦夷地では、生活に必要な米、塩、醤油、味噌などの食料品や衣類、藁製品などは、本州方面からの移入に頼っていて、漁猟中心の蝦夷地で瀬戸内の塩は、魚の処理、保存に欠かせない貴重なものでした。
 明治に入り、蝦夷地は北海道と改められ、明治政府による北海道の本格的な近代化が推し進められます。その拠点となる開拓使の本府が札幌に置かれ、札幌に近い小樽港は海上輸送の玄関口として位置付けられます。
鉄道など陸路が未整備であった当時、北前船が北海道の開拓に必要な物資や開拓移民の生活必需品などの輸送を担い、北前船の存在なくして北海道の開拓はあり得ませんでした。
 小樽は、元治2年(1865)場所請負制度が廃止され「村並み」となり、本州の村と同等に扱われることになったこの年を開基としています。
 物資の集積地となった小樽には、その保管施設である倉庫が立ち並び、廻船問屋や金融機関なども進出し、まさしく北海道経済の中心地として飛躍期を迎えることになります。
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 明治20年代から30年代には、北陸地方北前船主である加賀市橋立の西出孫左衛門、西谷庄八の旧小樽倉庫(北海道における最初の営業倉庫)、増田又右衛門の旧増田倉庫、加賀市大聖寺瀬越の大家七平の旧大家倉庫、廣海二三郎の旧廣海倉庫、福井県南越前町の右近権左衛門の旧右近倉庫などの石造(木骨石造)倉庫が次々と建てられていきます。
日露戦争で日本の領土となった南樺太への中継基地として、また、鉄道の延伸や港湾の整備などにより輸移出入港の拠点となった小樽は絶頂期へと向かっていきますが、この頃から北前船は小樽の港から姿を消していきました。
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 海の守護神を祀る小樽住吉神社には、大家、廣海両家の寄進した鳥居(明治30年建立)や尾道の石工が築いた石段、揖保乃糸播州素麺會社の玉垣など、各地の北前船に関連した痕跡が数多く残されています。
 また、「北前船考」(昭和32年)などを著し、北前船の研究で先駆的な役割を果たした故越崎宗一氏は小樽生まれ(越崎家の郷里は加賀市大聖寺)であるなど、小樽と北前船とは深い縁があります。
 昨年11月、北前船の寄港地をめぐる旅で坂越や下津井、塩飽本島、鞆の浦、竹原などを訪れ、各地で北前船の遺産等について見聞する機会を得ました。坂越では「坂越のまち並みを創る会」の門田守弘会長から北前船の日本遺産認定に向けた取り組みの話を伺い、下津井の「むかし下津井回船問屋」矢吹勝利館長とは、双方の干拓、開拓に北前船の果たした役割に触れ、今後の交流を深めていくこととし、早速、小樽の北前船に関連する写真を館内展示していただきました。
北前船が小樽発展の礎を築いたのは紛れもない事実ですが、小樽と北前船のさらなる関係解明や有形・無形の北前船文化の観光資源としての活用方法など、まだ多くの課題が残されています。 伊東直人(小樽市在住)
     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

瀬戸内坂越の北前船活動16号(鳥取)

   瀬戸内坂越の北前船活動16号(鳥取

 
 
 

 

 
 
 
 

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瀬戸内坂越の北前船活動15号(江差)

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   平成28年12月23日)

 

坂越の北前船の歴史を調べていて、多くのことを学びました。 その一つに北前船関連で出会った人とは、それが話の始まりとなることが多く、北前船は過去のものになっても人と人をつなげる何か魅力がある事を知りました。今回投稿して頂いた松尾さんもその例です。

 氏が札幌から坂越に来られたのは10月でしたがその時は坂越の廻船等のガイドを楽しくさせていただきました。できました。松尾さんからはブログ「林住庵おち漫遊記」の話をお聞きしましたが、五木寛之著の「林住期」から触発されたという話には感動しました。 そんなことがあって11月江差で再会した時はとても驚きました。再び「林住期」の話で盛り上がりましたが、この時やはり、北前船はこれから観光資源になって行くと感じました。 先日久ぶりに松尾さんのブログをみて第240号で「北前船、赤穂から江差まで」が掲載されていたので投稿をお願いしました。(矢竹考司)                     

  北前船 江差から坂越まで                           

                                                         

10月に句会があって 訪れた赤穂市で四十七義士像が並ぶ大石神社に参詣してきました。 当地で有名なのは「討ち入り」なので外せません。 神社のあるJR播州赤穂から一駅姫路寄りの市内・坂越(さこし)という港町の面影を残したまち並みの地区に寄りました。 地酒「忠臣蔵」の蔵元・奥藤家は 討ち入りのあった元禄時代から100年程も前から廻船業も営んでいた大店であり「奥藤酒造郷土館」には北前船の模型をはじめ往時の歴史資料が展示されています。  隣接する観光案内所「坂越まち並み会館」に入って思いがけず北海道との繋がりを感じる出会いがありました。 当日、館に詰めていた北前船文化の 調査をしているという矢竹さんと話をするうちに11月に北海道で「北前船寄港地フォーラム」があることが判明、がぜん興味が湧いてきました。フォーラムの開催要領をいただき会合には坂越からも参加する旨聞き帰宅後参加手続きを行いました。

当地では観光面で仇打ちばかりでない観光資源として「北前船寄港地」をキーワードに町おこしに取り組んでいます。 函館には5年住んだ関係から、北前船が江戸時代以降近世まで日本の物流を支えた大動脈だったことや江差追分等の郷土芸能・文化が北前船で運ばれたことを身近に知っていただけに北前船に寄せる思いは格別です。  11月11日のフォーラムは 会場の江差町文化会館に全国13寄港地がある県から600名を集め盛会裏に開催。  江差追分始め郷土芸能披露のあと新幹線開業後の道南函館観光を軸にパネル討論が行われました。  会場入り口には坂越のPRブースも設置されていて1ヶ月ぶりに北海道で矢竹さんと再会するという不思議な縁がありました。 フォーラム終了後のレセプションでは寄港地フォーラム第1回開催地の酒田市市議さんと同席となりフォーラムが始まった経緯を聴くことができました。 東京一極集中でなく特徴のある地域文化を発信していく狙いで北前船を横糸としてつなげた地域連携型フォーラムが出発点でかつての日本海側こそ表日本だと主張してきているとのこと。 北前船が日本遺産に登録されて現代に甦ることを期待してやみません。 松尾 誠之 (札幌市在住)

  

瀬戸内坂越の北前船活動14号(播州赤穂)

 瀬戸内坂越の北前船活動14号(播州赤穂)                                              2017年12月14日              

 12月は忠臣蔵の新説が紹介される事が多く、今年も西本願寺から新たな資料がでていました。2008年12月には日経ビジネスが故長谷川正康(元東京医科歯科大学名誉教授)が書いた「歯の風俗誌」を紹介していました。これは元禄の刃傷事件を赤穂塩と吉良塩の確執から、描いたもので、大筋は以下のようなものです。

 

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堀部安兵衛が書いた看板  大高源吾が書いた看板                                                                                                                          

                                                                                                                 5代将軍綱吉に歯磨き用として赤穂塩を献上して以来、江戸では「赤穂塩」といえば歯磨き用の塩を意味するようになった。「赤穂名産花形塩」として江戸で評判になり、赤穂塩の江戸への進出がめざましくなっていったと。 それまで将軍家へ献上してきた吉良家の「饗庭塩」は、「赤穂塩」が綱吉に献上されてから「赤穂塩」に代わった。江戸での面目を失い、吉良家にとって浅野家は意識せざるをえない存在になり、これが吉良と浅野の不仲の遠因だったと話が展開されていました。  

 この将軍家への「饗庭塩」献上について、国会図書館にもその資料はなく、西尾市学芸員の方もそう言われていました。 さらに郷土史家加古文雄さんも吉良町の塩は江戸には行っていなかったとのことでした。

墨田区の「たばこと塩の博物館」では、こんな面白いスト-リーが史実なら、塩の研究をしていた学者が論文で残していたはずで、それがないのは創作だとの見解でした。

 こうして氏の「江戸の入れ歯師たち」や「噛む」から 、1854年四壁庵茂蔦著「わすれのこり」と1855年山崎美成著「赤穂義士随筆」から出典していたのがわかりました。これらの中で堀部安兵衛が、歯磨き粉で赤穂の焼き塩で、江戸で最も有名だった芝の「かねやすゆうげん」の店の看板を書いた絵を紹介していました。

 その堀部安兵衛の書いた看板は、去年の12月に赤穂観光協会の鍋谷会長ら4人で泉岳寺に行った時、赤穂義士記念館で私が見た看板の1枚でした。また大高源吾も麹町の歯医者だった小野玄入の看板を書いていました。解説では、赤穂塩が江戸で1番人気でお祭り騒ぎにまでなっていたと書かれていました。その「かねやす」は今も残り、江戸期は塩を含んだ歯磨き粉を売っていたと言っていました。

 これで赤穂塩の江戸の活躍の史実と、吉良の塩の江戸でのことは創作で、架空の話だとわかりました。 長谷川氏の本から赤穂塩には江戸でもドラマがあったことを知りました。

  赤穂で完成した入浜式塩田は、昭和28年鹿島建設によって流下式に変わるまで300年以上続き、吉良町もまた、昭和29年鹿島建設によって太平洋側で唯一の流下式の工事が始まっていたのです、その後、流下式も国の政策により共に閉られていました。  

 西尾市郷土史家の加古文雄さんに、吉良町の塩田跡等を丁寧に車で案内して頂いたのは去年のことでした。その時は、「饗庭塩」は岡崎の八丁味噌 に用いられ、「塩の道」を経由して長野県伊那地方や塩尻まで運ばれ、にがりが少なく良質だと珍重されたと説明して下さいました。 その加古さんと、この12月に再開ができた時は懐かしい感じがしました。去年から続く交流で浅草では楽しい時間が持てました。  矢竹考司